J 「ざくろ。障子一重に小僧千人。助かる身から助ける身へ。」

昭和五十七年二月二十日 朝の御理解

x御神訓 信心の心得 「神は声もなし、形も見えず、疑えば限りなし。恐るべし。疑いを去れよ。」


 神様のどこを信ずるかと、神様のお働きをどのようなふうに頂き、又は信ずるかとまあ、いう事になると思うんです。疑いを去れよと。
 どのような場合であってもそれが神様の、いうならば、働きの中に起きてくる事である。私は今度の日航機のあの墜落事故の事を思いますのに、まるっきり合楽を芯にしてああした事故があったんだといったような感じを受けるんです。
 そりゃあ、あの合楽の為にああいう事故が起こったというような頂き方ではないですけれどもね。何かこう私共にいよいよ何かわからせずにはおかんというような働きの為にあったように思うんです。昨日、伊万里の吉富さん御夫婦が丁度四時の研修終わったところへ参拝して、月次祭にはお参りが出来なかったからというて、ま、見えられましたけれども、実は先だって東京に行かれた時に大変偉い方だそうですが、合楽のお話をさして頂いて、是非今度、合楽に夫婦でおかげ頂きたいというお導きが出来ておった。そして日にちまで二十七日に合楽参拝という事になるでしょうというてま、別れて帰って見えておった。
 ところが、そんなわけで、そん合楽参拝になられるわけですから、その中に急に九州への用件が出けてそれで、その方の代理、代わりの方、この方も大変偉い方だそうです。あの、何とか総理大臣と一緒にアメリカに行ったという方だそうですが、その方が代わりに行かれてその、あの日航機に帰りに乗っておられた。そしてやっぱ、前の方へ座っておられたから亡くなっておられるわけです。
 もう本当に合楽にお参りをする為に、日にちが変更になってこうなっておかげで私共夫婦が命びろいをしたという通知があったそうです。
 私は、まあ今度のあの高砂屋の三人の副社長他三人の方達、それから、先だって原田さんのところのあの御主人のあの靴ひもが引っ掛かった、その瞬間にこれは助かられたという事だけども、昨日のは只、その合楽に夫婦でお参りをしたい、しかも二十七日にお参りをしたい、その間に九州の方に用事がでけた、だからどうせ二十七日に行かなならんから代わりの方が出張して見えた。その方が帰りにあの飛行機事故であったという事なんですね。そしてその方は亡くなっておられる。
 まるっきり私共の身代わりのような事で自分達はおかげ受けたけれども、という事を聞いてまあ、昨日は、ま、その事のお届けなり御礼参拝でございました。何かこう割り切れないような感じがしとる、又、合楽に心向けた人やらはやっぱ助かっとるけども、そうでない人はその人の身代わりにならなん。それも一緒に助かってもらえれる手立てはなかっただろうか、といったようないろいろな事を思いましてね。
 それからもうすぐ四時の御祈念でしたから、御祈念に入らせてもろうて、その事を神様に御礼とも・・・そんわからんですよね。お礼申しあげてよいのか、只、合楽に本気で東京から合楽にまでお参りをさして頂こう、是非、そういう神様がござるならお参りしょうと日にちまで決めたという事だけで、なら、その方が助かられた、おかげを受けられたとこういうけれども、その方の代わりに九州に見えた方は亡くなられたと、何かこう割り切れない感とはこういう事だろうかと思うて、御神前に出らせて頂きましたら、神様からz『ざくろ』ですね、果物の。ざくろが、ぱあっ!!とこうひわれたような感じ。何かこう頭でもひわったような感じのね、で、頂いて、まあ、わからせて頂いた事なんですけども、あのう、私共はなぞなぞの時に、あの、ざくろとかけてといったような子供の時に「障子一重に小僧千人」といいますね。ざくろが中にこう障子があって、障子というか、そん中に沢山なつぶつぶがあるというところをいったもんでしょうね、ね。「障子一重に小僧千人」私はその事を頂いて、神様のいうならば、お働きというもののその深遠さ、そしていうならば、氏子助かってくれよというその働きの偉大さ、そういう願をそこに聞いたような思いがいたしました、ね。
 「一人がおかげを受けた為に、千人も万人もの者が助かるようななる」と仰せられてありますね。だから、人の手本になるような信心になれよとおっしゃるが、まあ、手本になるようにというのじゃなくて、いうならば、その方がです、本当に本当に合楽の金光様のおかげで自分どんが夫婦が助かった。けれども残念な事にその自分の代わりに行った人が亡くなった。その方の御霊の為にも、ね、一人が亡くなられたけれども、その事を境に信心を頂いて、沢山の人が助かるようなおかげにでもならなければ自分の心が治まらない。自分の心が落ちつかない。
 亡くなったその御霊に対して相すまん、ね。というような感じを受ける助かり方でしょうが、ね。そりゃ、どう感じなさるか思いなさるかわかりませんよ。けれども、なら、合楽に心を向けたおかげで自分達夫婦が助かった、ね。
 けれども、自分達の為にそれこそ犠牲になって下さったその方の為にも、これは、いよいよ自分達夫婦が助かってそのおかげで千人も万人もの、又助かるような働きにもならなん、そういう信心を本気で身につけなければならんというように、もし、その方が思われたら、ね。
 そりゃなるほど、やはり一つの生にえのような感じが致しますけれども、沢山の者が助かる事の為に、ね、私はこの、はあ本当に合楽のおかげで助かったという感じがひとしおだろうと思うんです。昨日、その電話がかかってきたのもそうです、おかげで助かったと、ね。けれども助かったとばかりは喜んではおれないというものがそこにあるでしょう。そこから一心発起して、その方がなら、自分が一人助かったおかげで、千人も万人も助かるようなおかげにも働きにもなってくるような願がかけられておるような気が致しました。
 なるほど、今度の日航機のあれは本当に合楽を芯にして起こった一つの事故のような感じが致しますが、ね。なら、だと私は信ずる事が信心だと思います。でなかったら、いうなら無駄になる。
 神様はこういう働き、こういう大きな犠牲をしてでも、いうならば、多くの人を助けずにはおかんというその働きというものを、その中から感じ、そして又、それを信ずると、ね。只、おかげを頂いて、神様ちはござるですばい、というて信ずる小さい神様ではなくてです、ね。偉大な働きを信じ、偉大な神様をわからして頂かしてもらうという事がいるんじゃないでしょうか。まあ、今日の私は、その事故から、又、その事について頂いたその,ざくろのお知らせから、私がこれは感じたんですけれどもね、「障子一重に小僧千人」、そういう芯に自分は合楽のおかげで助かったという芯に、しかも助かっただけではすまされない。そういう犠牲者がそこにあるという事です。ね、その御霊様の為に本気で助かって、又、自分の周囲に千人も万人もの助かるような人達がでけるような、いうなら、一心発起されれるようなおかげを受けられたら、いわゆる神様の願はそういうところから成就していくのじゃないかというふうに思う。又、それを、だと信ずるという事。
 只、神様を拝むとか、又はお願をしておかげを頂いたとか、やっぱりお願せんよりもお願いした方がいいです。やっぱ神様はござるですよという程度の頂き方から、ね 折角頂くのですから、大きな神様の働きを信じたい。大きな神様の働きを信じたいと思います。
  どうぞ。